人類の普遍的成長について

小さいときから、何かの初めは楽しく、それなりに上手にできるが、初級者から中級者への壁にいつも登れずに、絶望していた。

どうして続かない。なぜこんなにも難しいんだろう。極めることがどうして出来ないんだ。極めた人達というのは輝いている。私はその輝きをいつも放出することなく人生を送ってきた、うわべだけの人間だ。俗に言うニワカだ。努力の出来ない腑抜けだ。精神力が弱い。長い間生きることになったが、それはいつまでもそのまま私の人生に横たわっている。何の才能もないのか。何もしなかった二年間が悔やまれる。私は馬鹿だ。失敗した後に後悔をいつも繰り返している。進歩がない。精神的に向上心のない馬鹿だ。辞めてしまいたい。私には才能がない。だが、才能や天才とかそんな言葉のせいにして、自分の弱さを受け止められてないのかもしれない。思い上がっていた。もっと努力すればよかった。人に誇れるほど努力してきたのか。全ては自分の責任だし、もっと努力して良いパフォーマンスをすればこんなことを考えることはなかっただろうし、周りからも賞賛される。バカにされることなどなかったはずだ。こんな簡単なことをどうして出来ないのだ。努力を何処かで馬鹿にしている自分というのも少なからずいて、だが、それのほうが愚かで醜いことなのではないか。だって努力しなければニワカで終わるのだから。完璧にすることだって不可能ではない。それを諦めてしまった自分がいるのだ。いつも僕は途中で諦めてしまう。未来を想像すると、自分が輝く未来が想像できないのだ。

憧れのあの人は、今までに一体どれだけの努力をしてきたのだろう。それ故の結果なのだろう。結果は即ち過程なのだ。やってきた時間はあの人に追いつけないだろう。じゃあどうすればいいんだ。八方塞がりだ。何もしなかった時の私は本当に馬鹿だな。だから無能と揶揄されるのだ。

常に自分の中の自分は自分を責める。ある意味では当たり前かも知れない。どこかで「まあいっか」と諦めてしまったからではないのか。きっと想像上の自分は永遠に訪れないだろう。現実の自分というのは、ミスをして、他人の罵倒を恐れる弱き者なのだ。そんな現実の自分などいなくなればいいのに。結局それすらも出来ずに朝を迎える。どこまでも弱い人間だ私は。