愛にまみれて


【一般論】

小学生の頃、一番好きな漢字は「愛」だった。直江兼続の兜に書かれていてかっこよかったし、漢字自体の形も好きだった。愛という漢字は名前でもよく使われるし、どんな人も多かれ少なかれ愛を求めている。
もちろん、それには個人差がある。少量の愛で生きられる人もいるし、多量の愛を摂取しないと生きられない人もいる。気をつけなければいけないのは、少量の愛で足りる人が、多量の愛を必要とする人に対して軽蔑したり、理解が不十分だったりすることだ。
愛がなければ人は死ぬ。酸素がなければ人が生きられないのと同じで、愛がなければ人は死ぬだろう。だが、酸素は測れるのに対し、愛は測れない。しかも、形はなく、質量ももっていないし、色も付いていない。もちろん目には見えない。しかし、愛がなければ人は死ぬ。こんなに厄介でよく分からないものが生きるのに必要不可欠だなんて神様は設計ミスをしているんじゃないか。
逆説的に言えば、愛をあげれば人を生かすことができる。これはかなり素晴らしいことだと思う。神様はここの設計はミスっていなかった。人を生かすのは神でも、薬でも、ましてや金でもなく、人なのだ。
「愛の鞭」という言葉がある。暴力の言い訳として使う場合もあるが、もっと厄介なのは、本当に愛を示そうとして暴力を振るっている場合だ。しかしおそらく、暴力をされている側の人間はそれによって愛を感じることはできないだろう。もしそれによって愛だと感じた時は、その歪んだものを愛だと認知したまま受け継がれ、歪んだ愛の継承が次々と行われていってしまう。これは恐ろしいことだ。
だから、「他者理解」と言うのは非常に大切だ。その人にあった愛を処方していく必要がある。そして、人を理解するためには、まず人の話を聞く必要がある。悩みや葛藤で苦しんでる人にとっては、話を聞いてあげるだけでも、その苦しみは和らぐのだと聞いたことがある。話を聞いてくれる人がいる、というだけでもその人にとっては愛を感じることができるのだろう。
愛を扱うのは本当に難しい。麻薬や麻酔とかと一緒に、専門家以外は取扱不可にしてくれれば楽だろう。だが、それではあまりに足りなすぎる。毎日1回なんかでは足りないこともある。強い人は足りてもそうではない人だっている。だから、周りの人が愛を必要としている人に分け与えることが重要なのだ。あわよくば愛をあげるのが上手な人たちにたくさん恵まれますように。

 

 

 

 

【個人的体験と感想】

たまにどうすることもできないような憂鬱に襲われて、生きていくのすら困難に思えてしまう時がある。最近は非常に生活が充実していて、そんなことを思うことは少なくなったが、それでもわずかに思われる時がある。
わずかに思ってしまうと、僕はすぐSNSに書き込んでしまう。悪癖だとは思ったが、思った時にはすでに送信ボタンを押していた。何の意味もなく、しかも自分の中では大したことではない内容の、少しネガティブさが滲み出ているような内容だった。さあ寝よう。僕は布団に潜り込んで目を閉じた。
だが、朝起きたら何人もの人から心配や励ましの通知が何件も残っていた。僕は正直びっくりしてしまった。嬉しさよりも驚きが先にやってきた。それらはありきたりで独りよがりなものではなく、どれも様々な考えから巡らされたものばかりで、オリジナリティに溢れ、本当に僕のことを考えてくれているのだ、と素直に感じることができるものばかりだった。そこで僕は初めて自分の置かれた環境の恵まれていることに気がついた。「今まであまりの強すぎる光に照らされてたから 目が眩んで気づかなかっただけだった」という歌詞を思い出す。ふとした時に闇が心を覆った時、人は初めてその光の重要さに気がつくのだろう。
自分のことを孤独だと思ってしまう時もある。自分よりもキラキラしている人を見て、自分は暗がりにいると思う時もある。どうしようもなく自分が嫌いになる時もある。でも、完全に独りの人間なんていない。仮に今独りに感じることがあっても、周りにはきっと大切に思ってくれる人はいるし、永遠に独りで生きる人間もいない。「生まれて死ぬまで一人なのは誰も独りきりではないという証明」
僕はたくさんの愛を与えてくれる人たちに巡りあえて本当によかった。僕は今愛にまみれている。溢れるほどの愛で溺れている。時々苦しくなるくらいに。それはきっと贅沢なことなんだろう。本当に感謝してもし足りないくらいだ。でも、いつまでも愛に溺れているわけにはいかない。今度は僕が人を生かす番だ。