赤提灯と白い月

「冷夏が続いたせいか今年はなんだか時が進むのが早い」

とはよく言ったものだ。イヤホンから聞こえてきた歌詞に思わず納得してしまう。

半袖半ズボンで外に出た。なんだこれは。肌寒い。それに、5時半なのにすでに日が傾き始めている。僕だけ夏に置いて行かれたみたいだ。

今日は近所の神社でお祭りが催されており、僕の家の前にも、快活な子どもたちによって担がれた神輿がやってきた。昼下がり、子どもの声、少し乾いた風。何か風物詩めいたものを感じながら僕は目の前の神輿を眺めていた。

夕方になり、祭りが気になったので、犬の散歩がてら様子を見に行くことにした。人混みは嫌いだが、祭りは好きだ。理由は……後述。

散歩の道中、広い敷地の庭に紅葉が色づいているのが見えた。「千早振る神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは」という歌を思い出した。そんな光景、是非見たいが、見る前に死んでしまうかもな、と漠然と思った。

大きな通りに出ると、提灯が連なり、僕を幻想世界へと手招きしているようだった。「千と千尋の神隠し」みたいな幻想と狂乱だ。

神社へ着くと、すでにほぼ日は暮れており、藍色をした空と提灯の赤のコントラストが僕の心を躍らせた。神社の境内には、出店が立ち並び、大きな塀の外へと、煙が流れている。たくさんの子どもや、若者、老人、とにかく様々な人たちで溢れていた。近所の子どもも、男女混合のグループで、出店を見て回っており、僕にもそんなことがあったなあ、と思い出した。

中学生の頃だ。たまたま好きな人とばったり会ってしまい、すこし緊張しながらも、祭りを巡った経験があった。もちろん友達の協力あってだが。出店を一通りみて、バナナチョコや焼きそばなどを食べ終わり、射的をしてから、僕たちは神社をあとにした。鈴虫の音しか聞こえない帰り道を、僕らは並んで歩いた。月の光に照らされて、浴衣姿の彼女は笑った。僕にとっては、月の光よりも彼女は強い輝きを放っていた。その夜は、野球の試合1試合分くらいの長さの夜だったが、僕には未だに忘れることのできない思い出となって心に鎮座している。祭り最高や!とこの時思ってから、未だに思い続けている。これが祭りが好きな理由だ。「甘酸っぱいってどんな味だっけ?」って言われたら、僕は「あんな味だっただろ。忘れたのか」と返すだろう。

その2年後くらいに彼女に告白したが、気持ち悪いと一蹴された。

ノスタルジーに浸っていると、犬が舌を垂らして、疲れたと訴えかけてきたので、熱気と絢爛の境内を後にした。それから神社の周りを一周してから、大通りで神輿を眺めた。大声と熱狂で、僕は圧倒された。いつもは死んだような顔でキーボードを叩いているであろうあの人も、あんなに大声を出して神輿を上下させている。人である僕も驚いてしまった大音量なので、犬は僕の倍くらい怖がっていた。

恋が何なのか分からない時代は終わってしまって、かといって「モテ期」と呼ばれる時代は訪れないまま、いつの間にか僕は歳を重ねてしまった。いつの間にか、近所の少女は僕の思い出の年齢を過ぎてしまった。

一瞬で過ぎ行く季節に、無駄に胸を騒がせながら、帰り道を犬に連れられて歩いた。

通り雨

「散々悩んで時間が経ったら 雲行きが変わってポツリと降ってくる」

雨粒の落ちてくる空を眺め、傘を開きながら好きなバンドの曲の一節を思った。

無性にカツ丼が食べたくなった。習慣的に食べてるわけでもないのにそう思った。そうしてふらりと駅前の蕎麦屋に立ち寄った。

蕎麦屋には老人しかいなかった。客も、店員も、誰もが老人だ。少子高齢化を痛感する。よく、「若いもんが子どもを産まないのが悪い!」という老人がいるが、その言葉を聞くたびに、「じゃあ俺にも性の悦びを知らせてくれよ!」と反論したかった。

券売機で予定通りカツ丼を注文する。

ドアは開けっぱなしで、冷房は付いていない。もしかすると、冷房という概念を知らないようにも思えた。店内にはラジオが流れている。2017年とは思えない風景だった。

ラジオからは、荒川区の少年が書類送検をされたことが聞こえて来て、「今日も知らないところでどっかの誰かが書類送検されているんだなあ」とぼんやり思った。

カツ丼が運ばれて来て、割り箸を割った。

「それでは聞いていただきましょう。モンゴル800で、小さな恋のうたです。」

その時だった。とんでもない美人が店内に入って来たのは。

「広い宇宙の数ある一つ 青い地球の広い世界で」

後ろでそれを聴きながら、入店して来た彼女の顔を眺めた。

昭和を思わせる小さな蕎麦屋に、突然美女が入ってくるこの状況は、明らかに異常だった。

ラジオからは小気味いいブリッジミュートの刻みが聞こえ、それに合わせてボーカルが甘ったるい歌詞を歌っている。

彼女もカツ丼を注文した。自分は些細なことで運命を感じてしまう精神異常者だと自負していたので、「何だこれは!?」と心中穏やかでなくなってしまった。

隣に座る客も彼女を、天気雨の中に出た虹を眺めるような、怪訝そうな、どこか恍惚とした目で眺めた。

彼女をぼんやり眺めているうちに、彼女はあっという間にカツ丼を平らげ、何事もなかったかのように店を後にした。

彼女のゲリラ的なその入店と退店に、僕はあっけに取られてしまい、そのせいで僕のカツ丼はまだ半分以上残っている。

蒸し暑い夏の日、ゲリラ美女。そして15分で終わった恋。

カツ丼を食べ終わって外に出ると、通り雨はもうすでに止んでいた。

 

善玉菌-フランケンシュタインの恋を見て-

菌。

あなたはこの言葉を聞いた時どんな言葉を想像するだろうか。

バイ菌。カビ菌。虫歯菌。

もしくはもっと抽象的に。小さくて目に見えないもの、とか、人を蝕むもの、とか、汚いもの、とかそんなことを考えるだろう。

少なくとも、「食べたい」とか「ペットにして愛でたい」なんて人はいないだろう。

でも、僕たちは日頃から「ビフィズス菌」や、「乳酸菌」を食べ、「腸内細菌」を体内で飼って愛でている。

おかしくね? 

「菌」という言葉はあまりに強い。

 

フランケンシュタインの恋。今日(正確には昨日)で最終回が終わった。初めは、別に誰々が好き、とかそんな理由はなく、本当になんとなく、「連ドラを見たいなあ」くらいの勢いで見始めた。結局久しぶりに連ドラを最初から最後まで継続して見た。

トーリーは、綾野剛演じる、人間を死に至らしめる菌を放出してしまう怪物が、二階堂ふみ演じる女子大生に恋をしてしまう、と言う話だ。

感想から言うと、「大学の教授は間違いなくそんなことは言わない」とか、「話が超越しすぎ」とか、突っ込みたい綻びはいくつもあった。だが、メッセージ性が強く、「言葉」や「人間」についていちいち深く考えさせられた。俳優陣の演技の上手さにも感動したし、最終回で髪を短髪にした二階堂ふみがめちゃくちゃ可愛かった。少なくとも毎週日曜日が楽しみになるくらいにはこの作品を楽しめた。主題歌のRADWIMPSの「棒人間」も、RAD節全開だったが、絶妙にドラマにマッチし、文字通り「主題歌」としての働きをバッチリ果たしていた。これがこのドラマのために作られたものではないというのが驚きだ。また、「恋」がタイトルに入っていながら、イチャラブ要素が少なかったのも個人的には高得点だった。そして何やり、製作者側の強い想いが如実に作品に滲み出ていた。

 

「転校してきた生徒が『菌』と呼ばれイジメられる」

「福島から避難してきた生徒が先生から『菌』と呼ばれる」

そんなニュースを聞いたことがあるだろうか。

菌。

おそらくこのドラマを考えた人は、このニュースを考えて考えて、そして自分なりの答えを放出したんだろう。

 

僕も、学生時代に友達を菌のように扱ったことがある。○○菌とか言って他人に擦りつけたりもした。他人がやっているのを面白がって真似た。遊びのつもりでやった。もちろんその人が何かの菌でないのは知っていたし。だからそんなに悲しむとは思ってもいなかった。

「菌」という言葉はあまりに強い。

 

「僕もいつの日にかホントの人間になれるんじゃないかなんてそんな夢を見ていました夢を見てました」

なんて思ってたなんて知らなかった。

他人を貶めるのは、いつでも想像力の欠けた人だ。僕のように。

 

僕の想像だが、このドラマを作った人はきっと、こんなメッセージをドラマに込めたんだろう。

人は誰でも、人を救う力を持っている。

たとえ他人に菌と呼ばれようとも、「菌」が他人を、世界を救うのだ。

だから世界を閉ざさないでほしい。いつか必ず、誰かが「菌」を必要とする時がくるから。

「菌」はあまりに強い。

 

僕は、あの時よりは、想像力を養うことが出来ただろうか。君の傷を想像することが出来ているだろうか。

僕がこんなことを思うのは、君には茶番に思えるかもしれないが、君のような人や、僕のような人がこの世からいなくなる…それは出来なくても、せめて少なくなりますように。

ソール・ライターはパンチラである

「全裸よりパンチラの方が絶対抜ける」と彼は言った。「パンチラを見逃したら死にたくなる」とも言ったし、「バカかお前。パンチラを見るために階段は存在してるんだよ」とも言った。僕はそれに対してずっと理解しかねていた。

なぜパンチラはそれほどまでに男を興奮させるのか。その答えが今日少し分かった気がする。

その答えを教えてくれたのは、アメリカはピッツバーグ生まれの写真家、ソール・ライターだ。彼の作品を見たことがあるだろうか。彼の作品の中で、僕が好きな写真の一つがこれだ。f:id:jinrui-9415:20170621213742j:image

連なる車の左側に、ヒョイと何かを飛び越えた猫。静止画なのに躍動感がある。可愛い。圧倒的白黒。白黒で以って白黒を制す。そんな猫の決定的瞬間をファインダーに収めたこの作品。まさにこの場所、この瞬間でしか撮れない写真だろう。一瞬でもカメラを構えるのが遅ければ、この写真はこの世界に存在していなかったことになる。

そう、これこそがソール・ライターの真髄、「偶然の美学」である。

お気づきではあると思うが、今日僕は渋谷Bunkamuraのソール・ライター展に足を運んできた。そこで彼の写真を何枚も見て感じたのは、「自然体で着飾らず、偶然に撮られた写真こそ美しい」ということだ。あなたは、「前を歩く彼女を撮ろうとしたら、偶然無防備な顔で振り向いて、その時の顔がめちゃくちゃ可愛かった」という経験をしたことがあるだろうか。僕にはあるわけないだろ。いい加減にしろ。

パンチラ好きの彼が言いたかったのもこういうことだったのではないか。

パンチラは偶然によって為し得るものである。まず、偶然というのは価値が高い。なぜなら、それは常に露見しているわけではないからだ。このスリル。そして幸福感。そしてもう一つ、偶然においては、完全に無意識の状態であり、全く着飾っていない。これは即ち、相手の最も自然な姿を目撃していることになるのではないか。この二つの要素によって、今日もパンチラは全国の男性諸君から根強い支持を得ている。

パンチラと違い、AVは買い手がいる前提で撮られており、そこに出演する人物達は、悪い言い方をすれば、相手に「媚びた」撮られ方をしている。これは、Twitterや、Instagramなどの、SNSに無数に挙げられている写真達にも同様に言うことができる。地球を模したモニュメントの前で撮られている、足を組んだ女子高生たち。「インスタ映えする」と囃し立てられた、味よりも見た目が重視された料理。これらは決して自然ではない、偶然と対立する存在たちである。

AVやSNSの写真が悪いわけではない。これらは確かに、自分の表現したいものを前面に押し出すことができるし、見栄えもいい。失敗することも少ないだろう。だが、先ほどあげた、偶然撮られた写真のような感動はないはずだ。現に、SNS上には、同じような構図の写真が溢れているだろう。

僕は、「僥倖」という言葉が好きだ。語感がかっこいい、というのもあるが、何より「偶然の幸福」なんて素敵じゃない?最近僥倖に出逢うことが多くて、その時その時で感動している。予知出来ないからこそ、人生は面白いと思う。(面白さを求め過ぎるあまり、失敗することも多いが)

あなたは、「その瞬間でしか撮れないもの」を撮っているだろうか。見ているだろうか。体験しているだろうか。

最後に、ソール・ライターの言葉でこの文章を締めたいと思う。興味を持ってくださった方は、今週の日曜までなので、ぜひ彼の偶然の写真たちを見に渋谷へ行って欲しい。(本当は、ソール・ライターの撮ったヌードの写真がめちゃくちゃエロかった話もしたかったが。)

 

 

ーー写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時折提示することだ。

 

 

 

 

 

(痴漢や盗撮は犯罪なので絶対にやめましょう)

人類の普遍的成長について

小さいときから、何かの初めは楽しく、それなりに上手にできるが、初級者から中級者への壁にいつも登れずに、絶望していた。

どうして続かない。なぜこんなにも難しいんだろう。極めることがどうして出来ないんだ。極めた人達というのは輝いている。私はその輝きをいつも放出することなく人生を送ってきた、うわべだけの人間だ。俗に言うニワカだ。努力の出来ない腑抜けだ。精神力が弱い。長い間生きることになったが、それはいつまでもそのまま私の人生に横たわっている。何の才能もないのか。何もしなかった二年間が悔やまれる。私は馬鹿だ。失敗した後に後悔をいつも繰り返している。進歩がない。精神的に向上心のない馬鹿だ。辞めてしまいたい。私には才能がない。だが、才能や天才とかそんな言葉のせいにして、自分の弱さを受け止められてないのかもしれない。思い上がっていた。もっと努力すればよかった。人に誇れるほど努力してきたのか。全ては自分の責任だし、もっと努力して良いパフォーマンスをすればこんなことを考えることはなかっただろうし、周りからも賞賛される。バカにされることなどなかったはずだ。こんな簡単なことをどうして出来ないのだ。努力を何処かで馬鹿にしている自分というのも少なからずいて、だが、それのほうが愚かで醜いことなのではないか。だって努力しなければニワカで終わるのだから。完璧にすることだって不可能ではない。それを諦めてしまった自分がいるのだ。いつも僕は途中で諦めてしまう。未来を想像すると、自分が輝く未来が想像できないのだ。

憧れのあの人は、今までに一体どれだけの努力をしてきたのだろう。それ故の結果なのだろう。結果は即ち過程なのだ。やってきた時間はあの人に追いつけないだろう。じゃあどうすればいいんだ。八方塞がりだ。何もしなかった時の私は本当に馬鹿だな。だから無能と揶揄されるのだ。

常に自分の中の自分は自分を責める。ある意味では当たり前かも知れない。どこかで「まあいっか」と諦めてしまったからではないのか。きっと想像上の自分は永遠に訪れないだろう。現実の自分というのは、ミスをして、他人の罵倒を恐れる弱き者なのだ。そんな現実の自分などいなくなればいいのに。結局それすらも出来ずに朝を迎える。どこまでも弱い人間だ私は。

悪魔の囁き

「お前みたいな何も喋れない、喋ろうともしないやつがどうして飲み会なんて行くんだよ」

この声が聞こえてくると、僕は「またか」と思う。
「うるせえな。喋れないから行くんだろうが」
「周りはお前のこと面倒なやつだと思ってるぞ」
僕は何も言い返すことができない。
「皆言葉に出さないだけで、お前はただいるだけで何もしない木偶の坊だと思われてるよ。お前も自分で気づいてるだろ」
そうなのかもしれない。誰よりも自分のことをわかっているぶん、その言葉は心に鋭く突き刺さった。周りの反応は、優しくする、と言うより、腫れ物に触るような感覚に近かった。言うまでもなく、それは彼らが悪いのではなく寧ろ優しさ故の行為であることは自明であったが。
僕はこの現状をなんとか打開しようと奔走していた。だが、仲のいい友達が一人二人居なくなるだけで底知れぬ不安に駆られることもまた事実だった。
「お前、浮いてるぞ」
頭の中で響く声は未だチクチクと僕の精神を攻撃していた。

待ち合わせ場所へ着くなり僕は同じ学年の友達を探して、肩を叩いた。
おお、と友達は僕の名前を呼ぶ。僕は狭い肩身をもっと狭めて、集団の端の方へ収まった。形式的な挨拶や軽い話を交わす。不安は払拭できていなかったが、とりあえず、まずは溶け込むことに専念した。
「まあ、どうなるか見といてやるよ。せいぜい頑張りな」
声はそんな言葉を残して消え去った。

 

僕は3人並んで駅への帰路についていた。少し前の方では二人の一年生が屈託のない声をあげている。「こんな早くから仲良くなれてすごいな」などとぼんやり思った。頬にはわずかな火照りが残っていたので、外の空気の肌寒さが寧ろ快かった。両端にいたのは、それなりに話のできる友達だった。二人とも自分と空気感が似ているとは前から感じていたので、一緒にいて圧迫感などを感じることは全くなかった。
「授業一緒に受けようよ。今年は仲良くなろうと思って」
学部の同じ友達の、その言葉を聞いて、僕は邪推することなく単純に嬉しいと感じ、素直にありがとう、と返した。
僕たちは中身のない、すぐに忘れてしまうような話をした。しかしそれは僕の生活においてはとても重要なものであり、欠けているものでもあった。僕はそんな話のできる友達が今両脇にいることを幸せだと思った。
「じゃあね、六月頑張ろうね」
学部の違う、もう一人の友達は目を細めて笑う。
「あ、二人一緒だったんだ。じゃあ今度私とも組もうね」
学部の同じ友達はそう言って、別れを告げた。
僕は、「勿論。ありがとう」と告げて彼らと別れた。
二、三歩歩きながら、イヤホンを耳に詰める。ギターのアルペジオから始まる心地よいメロディーが聞こえてきて、ああ、よかった、と安堵した。
僕の頭の中の声に勝ち誇ったように「どうだ、やっぱりいけただろ」と念じた。
今考えると、なんであんなに恐怖していたのか疑問すら思う。
行ってみたら案外イケるんだよ。なんとかなるんだよ。
今日の、たわいもない会話や触れ合いを思い返しながら思う。
頭の中に、声はもう何も響いては来なかった。

ある中学生の信仰

僕にとって、そのバンドは哲学と言っても差し支えなかった。

ピアノとギター、電子音やドラムの音。そして透き通るようなボーカルによって構成された音、あまりにもストレートすぎる歌詞。それらによって構成された彼らの音楽は、良い意味で「幼稚」だった。誰も気づかないようなこと、誰も問題にしないようなことを、彼らは取り上げた。虫や花など、自称「忙しい」人たちにとっては、目にも入らない、そのようなことに、彼らは着目した。疑問を投げかけた。中学生だった僕は、彼らの影響を色濃く受け、今に至る。

 

突然彼らの話をしたのは、今日サン=テグジュペリの「星の王子様」を読んだことに起因する。この本もまた、紛うことなき良い作品だった。だがここでは記すべきスペースがないので、いつかまたの機会にとっておこう。

この本を読了した時、僕にある一つのバンドが頭に浮かんだ。彼らの最近の曲はほとんど聴いていなかったので、彼らの一番初めのアルバムの、一曲目を聴くことにした。

もう何百回と聴いた曲だったが、今でも僕の心の中で静かに光り続けている。そして再確認した。やっぱり「星の王子様」と、彼らの音楽は似ているのだ。中学生の頃、心奪われた音楽と、大学生になった今、心奪われた小説が奇妙なマッチを果たした。

僕も「おとな」にならないように、時にはこの本や音楽を思い返すことにしよう。

 

「僕もいつの日か星になる」