かわらないもの

このブログでは無意識だがいつも「無常観」について書いている。

もれなく今日もそのことについて書く。

 

胡蝶蘭の落ちる前に

毎年恒例のことだが、親の実家の方へ帰省をした。僕は去年運転免許を取得したのでそこで何回か練習をした。最初は不安だったが、慣れてくると楽しく、いつかドライブに行きたいなあなんて考えたりもした。

これは多分凄いことだが、田舎の親戚たちや祖父母は僕が生まれてからほとんど人が死んでいない。喜ばしいことだが、逆説的に言えばこれからどんどん人が死ぬということでもあり、これは恐ろしい。身近な人の死ほど恐いものはないだろう。特に僕は祖父を尊敬していて、知識の豊富さや考え方、泰然自若な彼の性格が僕は好きだった。最近スマホを購入したものの、使い方が分からないと言うので一通り使い方を教えても「よくわからん」と言って飄々としていた。彼に死なれる前に僕は彼に誇れるような人間にならなくてはならないし、悔いも残してはいけない。この2つを実現するにはもう少し時間がかかりそうなので、出来るだけ長生きしてほしい。

 

②時代錯誤

何回か書いたことだが、近所でお祭りがやっていたので行った。元々行きたいという強い意図があったわけではないが、たまたま予定が空いていて、好きなお祭りだったので見物する程度に回ることにした。入り口で中学の時好きだった人と6年前と同じ場所、同じ祭りで偶然会った。僕も彼女も中学の友人と一緒に来ていたが、2人ともおー、と間延びした声を上げただけで、昔みたいに一緒に回るようなことはなかった。

祭りは今年もほとんど変わっていなかった。射的、くじ引き、金魚すくい、焼きそばやチョコバナナを売る店。子供たちは屋台の店主に群がって景品をせびり、客の来ない店の店主は気だるそうな顔をして佇んでいた。そういう人間臭さが僕は好きだった。スマートフォンが普及し、ロボットは平気で店内で働き、想像も出来なかったような未来が現実になっている現代においてさえ、祭りはあの頃とちっとも変わっていなかった。きっと10年後や20年後、ひょっとすると100年後もこのままかわらないかもしれない。できれば変わらないでほしいと僕は心の中で祈った。

 

③平成最後の夏

散々SNSで使い古された言説だったし、平成最後とか言わずにいつでも一瞬一瞬を大切にしろよ、と僕は思っていたので、僕はこの言葉があまり好きではなかった。

しかし来年からは間違いなく僕の知らない元号が始まっているのだ、と考えると感慨深かった。僕らは次の年号が何になるかを帰り道ずっと考えていた。「安」「太」「創」などの漢字を上げて、それっぽく当てはめてみて、ありそうだとか、Sは昭和で使われているからだめだとか真面目に考察をしたが、一向に答えは出なかった。でも、年号が何になっても、こうして地元の道を友人達と歩いていたいな、と僕はそう思った。

 

僕らの知らない時代がやってくる、それだけで少しわくわくしたし、新たな時代の夜明けをひしひしと感じていた。しかしあと4ヶ月で今年も終わってしまう。それは同時にサークルに現役として居座れる期限でもあったし、就活をせずだらけていられる期限でもあったので、出来るだけ訪れないで欲しかった。好きだったあの人は他の男と付き合ってしまうし、地球の公転は止まらないし、お気に入りの店は閉まるし、人はいずれ死ぬ。変わらないものなんてないだろう。それにしがみつくのも情けない。だが、恐るべきスピードで変わっていってしまうものの中に、ふと立ち止まって目を向けると変わらないものがあるのもそれはそれで嬉しいことなのではないだろうか。変わっていくものも、かわらないものも、僕は同じように抱きしめられたらいいなと思う。

ブログらしいブログを書いたような気がする。今日はやけに涼しくて過ごしやすいな。